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リハビリテーション科女性医師ネットワーク(RJN)

第17回「この先生に聞きたい!」女性リハビリテーション科専門医キャリアパス

日時 2017年2月17日(金)
14時30分~15時30分 施設見学/打ち合わせ
15時30分~17時00分 インタビュー
場所 初台リハビリテーション病院(東京都渋谷区)
ゲスト 石川 誠先生(初台リハビリテーション病院 / 医療法人社団 輝生会 理事長)
インタビュアー 上田 まり先生 (北九州八幡東病院)
佐藤 万美子先生(福井総合病院)
司会 浅野 由美先生(千葉大学医学部附属病院リハビリテーション科)
藤原 清香先生(東京大学医学部附属病院リハビリテーション科)
オブザーバー 大串 幹 先生 (兵庫県立兵庫県立リハビリテーション中央病院 リハビリテーション科)

司会(浅野):今日は初台リハビリテーション病院の石川誠先生のところに伺っています。石川先生、本日のRJNインタビュー、どうぞよろしくお願い致します。司会を担当します千葉大学の浅野です。

司会(藤原): 同じく司会を担当します東京大学の藤原です­。よろしくお願い致します。

司会(­浅野):また、オブザーバーとしてRJNの大串幹副委員長も同席しています。

それではまず、インタビュアーの先生方から自己紹介をお願いします。

上田: 産業医大出身の上田まりと申します。1991年に産業医大を卒業し、そのまますぐリハビリ医学教室に入局し、1年間大学で研修後、九州労災病院に勤務しました。脊損患者さん、切断患者さんなど診させて頂き、外来患者さんの中にはもう何十年来と通ってくる方もいらして大変勉強になりました。その後、労災病院をいくつか回った後大学病院に戻りましたが、出産を機に大学病院での勤務が少し難しくなり、外勤でお世話になっていた民間病院に出させて頂きました。そちらでは、リハ医ということでリハビリ科の外来ともの忘れ外来も担当しました。その後、特別養護老人ホームの嘱託医や、訪問診療も担当しました。

今思えば、実際の患者さんのお宅に行かせて頂いて、こんなに高齢で歩けないで、かなり段差の高い玄関のあるお宅で、本当にこんな方がお一人でも生活できるんだな、サービスを使えば生活できるんだな、ということを何度も見させて頂きました。本当に今の仕事の上でも大変役立っております。

その後、2009年に現在の八幡東病院へ移り、回復期の専任でずっと勤務しています。内訳としては6割が整形疾患、3割が脳血管疾患で、初台リハビリテーション病院さんとはだいぶ違っています。こちらのように中枢疾患の患者さんがほとんどですと、病棟の運営は大変ご苦労があるだろうなと思います。

石川: 回復期にいらしたのが2009年からですから、もう回復期のベテランですね。佐藤先生は?

佐藤: はい、初めまして。福井からまいりました。医師を目指す前、88歳まで元気だった祖祖母が、階段から転落し大腿骨を折って寝たきりになってしまうということがありました。その頃リハビリはあまり盛んでなくて・・・。学生で分からないことも多かったのですが、リハビリって必要だなと何となくイメージしていました。

医学部を1999年に卒業したのですが、母校の福井医科大学にはリハビリテーション科はなく、神経内科のある第二内科に入局しました。その後、現在の福井総合病院にまず神経内科医として出させていただいて・・・。リハが盛んな病院でしたので、あ、リハビリってすごいと。それで、リハビリを勉強したいなと思ったんですけれども、第二内科の医局員でしたので、神経内科の専門医をまず取らないとということで、神経内科を中心に勉強して、2005年に神経内科の専門医を取りました。

その後、SCUがある急性期の病院で勤務し脳卒中を中心に診ていましたが、出産もありましたし、リハビリをやりたいということは医局にお話ししていて・・・。そんなことで、また福井総合病院に出させて頂けるということになりました。その後は、産休、育休を頂きながら勤務し、2014年から回復期リハ病棟の専従医になり、リハ専門医を取ったのは2年前です。

石川: じゃあ、お二方とも、回復期リハ病棟に関係しているわけだ。

上田、佐藤: そうです。はい。

 

はじまりは脳外科から

司会(浅野): インタビュアーはお二人とも回復期リハ勤務ということで、回復期リハを始められた石川先生にお聞きになりたいことがたくさんあると思います。いかがでしょうか。

上田: 私が医師になった頃も、本当にリハ医というのはなかなか認知度も低くて、「何科の先生ですか」と聞かれて、リハビリですというと、「じゃあ結局、何の専門なんですか」と聞かれてしまい、本当に認知されていないなと・・・。

石川: そうですね。

上田: 私は、幸いなことに母校の産業医大にリハ医学講座があったので・・・。石川先生は脳外科から移られたと伺いましたが、先生がリハ医になられたきっかけはどのようなことだったのでしょうか。

石川: まあ、きっかけというのは、脳外科だったからリハに行ったというのが正直なところなんです。僕は長野県の佐久総合病院という病院に脳外科の立ち上げに行ったんですね。当時の脳外科はCTもMRIもない、血管撮影は頸動脈に直接穿刺、椎骨動脈は全身麻酔で直接穿刺の時代です。予期せぬ出来事もたくさん起こるんですね。だから、歩いて入院してきた方が、手術したら寝たきりになることもありました。それをどうしても何とかしたいわけです。脳外科的にはもうどうにもならないわけで、そうするとリハしかないんですよ。ところが、まったく分からなかったのです、リハのことは。当時、リハというとね、PT(理学療法)、OT(作業療法)の代名詞なんですよね。

上田: そうですね。

石川: PT室へ行ってずっと見ているんですけどね、これをやると本当によくなるのかなと疑問に思うわけです。本当はどうなんだろう、これはリハの本格的な勉強が必要だと思い、同じ長野県にある鹿教湯リハセンターに研修に行ったわけです。そこでは確かに総合的にリハをやっていることは分かるんですけど、やっぱりPT、OTなんですよ。それに、病棟に行くと、患者さんはみんな寝ているんですね。ちょっと違うんじゃないかと。じゃあどうしたらいいんだと悩んでいたときに、脳外科からはもう危険人物と認定されましてね。

上田: 先生がですか。

石川: 脳外科を辞めてしまってリハに行きそうだというので、佐久総合病院を途中で辞めさせられて大学病院に連れ戻されちゃった、強引に。

上田: 抜けられないように。

石川: もう籠の鳥みたい。ほとんどうつ病状態でもんもんとしていたんですよね。朝起きて大学に行きたくないという感じで。それでどうしようかというときに、虎の門病院から誘われたのです。なんか風変わりな医者、脳外科じゃなくてリハに行きたい医者がいるらしいと。虎の門病院にはリハを志向する医者は誰もいなくて困っていて、私には救いの手みたいに思えたのです。でも、実は、それが失敗だったんだけど・・・。つまり、リハを勉強できると思って虎の門病院に行ったけど、教えてくれる人は誰もいないわけです。PT、OT、ST(言語聴覚士)とか、ソーシャルワーカーはしっかりそろっているんですけども。そこで、ほとんど独学でリハの道を目指したんですけど、独学じゃ無理だと思って頼ったのが、東京都府中にある東京都神経科学総合研究所(現 東京都医学総合研究所)で、中村隆一先生という、神経生理学者のようなリハ医の先生がいらっしゃったわけですよ。

そこで勉強したのと、もう一つは、専門医制度ができたので、受けざるを得なくて受けたんですけど、最初は落ちたんです。そしたら、虎の門の院長がいたく心配して、「上田先生のところへ行け」と。それで東大の上田敏先生のところへ行ったら、そこに大川弥生先生がいらしたり、二木立先生がいらしたり・・・、そういう時代でした。

それで何となく、リハといっても、あっちに行くとこう、こっちに行くとこう、というかんじで、皆違うんですよ。いや、どれが本物なのかなと模索していた時、虎の門病院の分院に勤務していたのですが、看護がね、すごいんですよ。もうね、今まで見てきたどの病院の看護とも比較にならないほどすごい。

例えばね、どんな患者さんも起こして、椅子に座らせて食事させているし、ベッド上で食事している人は誰もいないわけです。入浴も、全部浴槽に、どんな重度でも入れちゃう。膀胱留置カテーテルも、急性期から移ってくるとすぐ抜いちゃうわけです。ともかく管類はみんな抜いちゃって、できるだけ口から食べさせるとか、お風呂に入れるとか、トイレに連れていくとか。すごいんです、もうナースの活躍が。傑作なのはね、PTが今週から歩行訓練を始めますと言うと、「先週からもう病棟ではやっています」とナースが答えるわけ。それがもう当たり前、PT、OT、形無しなんですよ。

佐藤: すごいですね。

石川: それを見てね、これだと思ったんですよ。この看護がリハ病院の全体に染み渡れば、もう何て言うか、鬼に金棒。ところが、当時の老舗のリハビリ病院は全部付き添い看護で、基準看護じゃなかった。だから、まず、付き添いのない看護で、看護がしっかりしていれば、それだけでもう8割方決まり。そこに本当に有能なPT、OT、STがチームで入ればもっといい、そういうふうに僕には思えたんです。

ところが、全国にそんなことをやろうとしているリハビリ病院はないわけです、どこにも。それで、それを実現するためにはどうしたらいいか、虎の門病院ではそんな自由はありませんから、どうしたらいいかなというときに、高知の近森病院へ行ったわけです。そこで自己実現というか、その闘いが始まったんです。だから、虎の門にいるときは助走のときですね。その時に、リハの専門医試験を2度目に受けて、何とか通ったわけですよ。難しいんだ、あれ。

一同: ははは(笑)。

闘い〜理想のリハ医療を求めて〜

石川: だから、私の原点はやっぱり脳外科で、手術した後寝たきりになる、それを何とかしたいというのでリハに移って、ともかくリハの一番いい臨床家になろうと思っていました。そういう所はないかなとさがしたら、どうも、ちょっと違う、ちょっと違う、ちょっと違う。それで最後は近森病院に行ってということですね。

上田: 近森病院では、まだ回復期リハ病棟が制度化された時代ではなかったと思うんですが、近い状態をつくられたわけですね。

石川: 近森病院というのは今でこそ有名ですけどね、私が行った頃はね、寝たきりの患者さんも多い急性期病院でした。救命救急は、どんな患者さんでも365日24時間受け入れる。だから、集中治療室や救急外来は花形ですよ。でもその後はね、寝かせきり。僕が行ったときにね、数えたんです。気管切開、経管栄養、膀胱留置カテーテル、褥瘡のある患者さんが120人。

上田: 全体が何床ですか。

石川: 600床。

上田: ああっ、5分の1。

佐藤: すごいですね、それは。

石川: すごいでしょう。救命救急一生懸命やったら、寝たきりの患者さんが増えるだけで。リハのPT、OT、STはね、数は少ないけどいたんです。でも一部の患者さんにだけ対応してね、全体像は誰も見ない。分かります?

上田: 分かります。

石川: 公平、公正の概念がなくて、病院の全体像も見えないし。だから、それをね、改革したんです。大変だったけど、考えてみたら、あんな面白い時代はなかったですね。看護は全部、付き添い看護でしょう。それじゃあもう話にならない。だから、何から始めるかといったら、まず付き添いを外すことから始めるんですよ。

ところがナースは、付き添いなしの看護なんてやったことないからどうしたらいいかわからない。しようがないから、虎の門にいた仲間に土下座してね、1週間でいいから近森に来て手伝ってほしい。で、1週間が2週間になり、1カ月になって、何年にもなる。6人ぐらい来てくれたかな。それが、看護の改革をやったんですよね。

上田: ものすごい抵抗があったんじゃないかと思います。

石川: 例えばですね、もう傑作なんですけどね、ベッドがこのテーブルの高さですよ。70センチね。

上田: オムツ替えとかがしやすいように。

石川: そうそう。で、手すりなしね。手すりがないから患者さんは自分で起き上がれない。だから、全部ベッドの足を切って、手すりを付けて。ドアは開き戸だったから、これをアコーディオンにして。お風呂場は機械浴は捨てちゃって普通の浴槽を入れていって、もう大改造。

看護も総入れ替えですよね。本当にADLをきちっと見られる自立支援のナーシング。でも、ある朝行ったらば、12人ぐらいいるはずのナースが、5人しか来てないんですよ。

上田: わっ、半分ぐらい。

石川: 7人の集団欠勤、ストライキですよ。打倒、石川で。

上田: 病院でそういうことがあるんですね。

石川: あるんです。みんな示し合わせて、付き添い看護を死守するんだとか言って。付き添い看護をやめるとナースはみんな業務が大変になるでしょう。

上田: はい。

石川: だから付き添い看護をなくさいないために休んじゃう、示し合わせて。あの時は、負けたと思いました。だけど、その時に出勤してきた1人が、近森の生え抜きだったんです。それでそのナースが、すごくリハ看護を楽しいって言ってくれたのです。自分たちが看護をしっかりすると、患者さんがこんなに変わるのかって。だって、3年間寝たきりだった人が、1人で起き上がって外を散歩し始めたりするわけです。

佐藤: それはすごいですよね。

石川: そういうケースが続々と出たわけですよ。看護が変わるとそこまで変わる。そうすると、やっぱりナースもやる気が出るでしょう。ナースが集団欠勤したとき、PT、OT、ST達に「今日は訓練中止。君は食事介助、君はトイレ介助、OTはお風呂介助」と声をかけ、みんなで分担してナースの仕事をやったんだけど、日勤帯が終わったらもう夜10時頃になってしまって・・・。そのメンバーで飲みに行ったわけです。そこで、僕は敗北宣言して、もう近森では無理だと。僕の理想が高すぎて、無理だったんだから敗北したよ、もう東京に帰ろう、と言ったら、そのたった1人の近森生え抜きのナースが机をたたいて怒ったんですよ。バアン、「冗談じゃないわよ、人をその気にさせといて」って。

上田、佐藤: すごい。

石川: それで僕はね、いや、これはまずかった、まずいことを言ったなと思って。分かったと、どんな抵抗勢力があったって負けないで頑張ろうと。まあ、結団式ですね。忘れないです。

佐藤: 素晴らしいですね。

石川: それで、それをきっかけに、じゃあ、新しい病院にしちゃおうと。で、近森病院の隣に近森リハ病院の建築計画を始めた。大変でした。

上田: でしょうね(笑)。その当時いたら、耐えられる自信がありません。

一同: ははは(笑)。

石川: その頃はね、はったりとか、大風呂敷なんですよね、もうほとんど。だって医者はね、僕を入れて2人しかいないわけですよ。患者さんは百何十人いるのに。だから医者を絶対に増やすしかない。もう絶対増やす、10人に増やすとかって。まあ、増やせっこないのにね、病院の図面だけ引いちゃって。だからスタッフたちは半信半疑。病院ができるまで信じてくれない。でも、少しずつ医者をスカウトしてね、何とかね、6、7人集まったかな。それで始めたんです、近森リハ病院を。その時から、看護はものすごく大事だということで、看護中心、看護をものすごく重視して。ナースがその気になってくれると、もう全然変わりますから。PT、OT、STは、もともとその気ですからね。

佐藤: 訓練ですとか、機能的に良くすることですとか、そういうことに対しては、療法士さんたちはもともと一生懸命ですからね。

石川: ええ。それで次はね、在宅の患者さんへの対応です。当時、訪問リハという言葉すらなかったけど、大事だというので、やっていたんです。虎の門時代からやっていた。近森へ行ってもやっていて。

 

ADLこそリハのテーマ!

石川: ある日、PTが訪問に行ったら、10分位で帰ってきちゃったんですよ。行ったケースは、頸髄損傷の患者さんなんです、重度の。どうしてそんなに早く帰ってくるんだと聞いたら、「便失禁してた」と言うんですよ。そんなの処置してからやりゃいいじゃないかと言ったら、「やり方が分からない」と言うんだよね。いや、ちょっと待てよって。僕だってできるよ、家族だってできるし、ヘルパーだってできるのに、どうしてPT、OT、STとかって国家資格を持っていて、医療職、専門職がそれができないんだと。君たちPTは運動療法と物理療法とADL(Activity of daily living:日常生活動作)だろうって。ADLの指導とか言っているけど、それもできないんじゃ、話にならないだろうという議論があって。

その時にはたと気が付いたのが、そうか、そういうトレーニングを受けていないんだからしようがない。そこで考えたのがね、PT、OTの早出、遅出なんですよ。どこかでトレーニングを、実際に現場を踏まないと駄目でしょう。朝の6時、7時から8時半頃というのは、起き上がり動作介助、着替え介助、洗面介助。それからトイレ介助、食事介助。なんか全てのADLが詰まっているときじゃないですか。

上田: そうですね、一番忙しい時ですね。

石川: 夜はそれにお風呂が入ってね。その時に、夜勤のスタッフしかいないんですよ、ナースは。だから早出のナースとか、たくさん付けるわけですけど、それでも足らない。じゃあ、ちょうどいいや、PT、OTに、それに参加してもらおうと。そしたらね、みんなできるようになったんですよ。それが一つ。もう一つは、当時、「リハ出し」という言葉があった。今でもありますか。

上田: 今は回復期病棟なのでないですけど、よその一般病棟だとあります。

石川: リハ出し、オペ出しって分かります?

佐藤: はい。

石川: 病棟からオペする患者さんをオペ室へ連れていくのがオペ出し、リハ室に連れていくのをリハ出しって言うんです。僕はね、何その言葉って言ったら、リハ室に連れていくと言うから、ナースや介護はそういう役割じゃないぞと言ったんですけど。

その時にOTがね、OT室の前でストップウオッチを持って、何分何秒、患者さんが遅れたかって記録していた。

 

チーム医療のはじまり

石川: 遅れるからって、怒っちゃってね、何分何秒って統計取っている。ちょっと待てよと。そんな暇があったら、患者さんを迎えに行けばいいじゃないかって、思ったんですね。あ、そうだよと思って、PTもOTもSTもね、ベッドサイドまで迎えに行くようにしたんです。迎えに行ったときがエクササイズの始まり、訓練の始まり。そうすると、看護、介護は送迎しなくていいから、その分ケアにもっと手がかけられる。

そうやったらね、結構、病棟でスタッフたちが、ナースと話をどんどんするようになってコミュニケーションがよくなった。それに端を発して、病棟配属にしてしまえ。ね、そうするとチームがもっと強化されるでしょう。病棟配属にしたのと、土日・祝祭日もリハをやる。それを近森リハ病院でやったわけです。ほとんど同時に。もう大混乱。大混乱だけども、何とかそれを乗り越えましたよね。

佐藤: それは何年頃のお話になりますか。

石川: 平成6年か7年かな。そうやって、そのリハ病院を独立させて。合言葉は、何しろ救命救急と集中治療室が花形ですから、「打倒、急性期」なの。で、どういう意味かというと、急性期は廃用症候群の患者さんをつくるところ。褥瘡をつくったり、寝たきりをつくったりする。われわれは魂を入れて、それを起こすんだ。燃えろって感じ。

上田: かっこいい。

石川: ほんとに。そういう感じでしたね。でも、急性期も大事ですから、そうやってリハ病院がうまく回り出したら、急性期のほうにもしょっちゅう行くようになって。急性期のオーダーをチェックしなくちゃいけないんだけど、それはすごい数で、カンファレンスもやらなくちゃいけないし、もう忙しくてたまらないわけですよ。それで、急性期の医師に必ずカンファレンスに参加してもらって、リハオーダーの出し方を指導して、ある程度各科にそういう医師が1人ずつぐらい出たところで撤退。その代わり、リハスタッフは全部付けます。急性期用に急性期専従のリハスタッフ。特に脳外科と神経内科は、脳外科・神経内科用の病棟にリハ室までつくって。そうやって、急性期のバージョンアップを図りました。

一方で今度は、回復期を退院した後のケースをどうするかで、訪問をやっていましたから、訪問と外来と通所と老健施設、30床ぐらいの老健施設でショートステイもやって、それをまるめた在宅総合ケアセンターというのをつくったんです。

それで、急性期、回復期、在宅が、目に見えるかたちになったわけですよ。そしたらね、厚労省の官僚の方が見学に沢山いらっしゃるんですよ。なるほど、こういうふうにやるといいのかって。すごい数の療法士が回復期に携わっているでしょう。そこは急性期とは全然違う。点滴なんて1本も下がっていないわけです。で、急性期は病棟に訓練室があって、脳外科・神経内科チームと、整形外科チーム、その他のチームなんて3つに分かれて。急性期は急性期で、回復期は回復期でまとまっていて、それが終わった後に在宅への取組みがあって。それを官僚の方が1日か2日かけて全部見てね、訪問にも付き合ったりするんです。何十人もいらっしゃいましたよ。

そうこうしているうちに、介護保険ができるということになって、「どうも近森では面白い取り組みをやっているらしいけど、それってなにかのシステムに乗らないか」と。つまり、介護保険を使う前に、できるだけリハビリでよくして、あまり重度にならないような仕組みが必要だった。だから近森リハ病院のような病棟を制度化すればいいんじゃないかというので、回復期リハ病棟が生まれた。

佐藤: こちらの初台リハビリテーション病院はいつできたんですか。

石川: 2002年。それで、何とか4年目ぐらいに、収支がプラス・マイナスゼロぐらいになったので、その時に教育研修局をつくって研修システムづくりを始めたんですよ。

大串: そういう仕組みがあると、どの部門にいても、熟練のスキルを皆均等に教育を受けるシステムがあるから安心して働けるし、患者さんもちゃんとしたスキルのものを提供してもらえるので非常にいいと思いますね。

石川: それも最初はうまく機能しなくて・・・。局長をつくって、その下に部長なんて置いたりするけど、幹部のチームアプローチができていないとか。まあ、いろんなことがあってね、もう本当に(笑)。まあ、苦労しました。ほんとに。やっと最近しっくり来て。

佐藤: 他の職種と横のつながりをうまくするというのはやっぱりなかなか難しいですよね。同じ職種同士の縦のつながりは、教育でうまくいっても。

石川: そのチームアプローチを育むために、ものすごくいろんな工夫をしたわけですよ。だから、ユニホームもみんな一緒でしょう。

佐藤: びっくりしました、今日伺って。

石川: ええ、みんな同じ格好で。それで、全員「さん付け」で呼ぶでしょう、医者も含めて。それから、スタッフは全て病棟配属にして。そのときに、普通、病棟の管理者は病棟師長だけど、そうはしなくて、かわりにチームマネージャーをおいて。半分はナース、半分はPT、OT、STがマネージャーです。PT、OT、STでも、マネジメント能力の高い人を抜擢していくと、あ、あの人が来たんならついていくわというナースも多いし。ナースの中でも、ちゃんとPT、OT、STと、看護と介護と分け隔てなく見られるような、そういう能力のある人がチームマネジャーになって。それがやっと、まあ最近しっくりしてきました。

 

交絡する3本の軸

石川: でも、私、今だってどうも整理がうまくできないですね。リハにはいろんな軸がありましてね、時間軸として、急性期、回復期、維持期(生活期)という軸がありますよね。最近それに予防まで、介護予防の分野もリハに入ってきていますから。その時間軸があるでしょう。これがみんな違うわけですよ、内容が。それからもう一つ、疾患別という軸があるでしょう、診療報酬で。脳血管疾患等、運動器、呼吸器、心大血管、それに、がん、認知症、難病、ほんと続々と出てきていますよね。それからもう一つの軸は、職種の軸があるわけですよ。リハ科医とそれ以外の医師、それから、PT、OT、ST、リハ看護、リハ介護、リハに関する栄養士、管理栄養士。そういう職種の別があるでしょう。その3つの軸をどう整理整頓していくのか。整理整頓されていないんですよ。

ただ、下手に整理整頓すると、とんでもないことになって。カナダに行くと、足はPT、手はOTね。ヨーロッパへ行くと、病院の中はPT、外はOT、もうはっきりしている。PTなんていないですよ、在宅に。病院の中では、OTはほんとにPTの10の1ぐらいしかいないし。オーストラリアもそうですよね。だから、そういうところの整理整頓は、世界中まだ模索状態なのかもしれませんよね。やっぱりPT、OT、STのルーツが全部違いますでしょう。日本は、PT、OT、同時につくったので、ルーツが一緒なんです。だから、PT、OTというのは乱れるんですね。ここは今度、整理がいるんだけど、どっちかというとPTのほうが強力で、OTのほうが数が少ないから、いつもね、OTは悲しい思いをするんですね。そういう整理をちゃんとしなくちゃいけない時代じゃないでしょうかね。

それと、大学のリハ科の先生方は、リハを自然科学であると。どうしても大学にいると、最先端のことをやらざるを得ない、やらないと存在価値を疑われると思っているのかもしれません。

上田: そういうイメージがありますね。

石川: でも、そんなことはないと思うんですけどね。大学にいても、どんどん地域を考えるとかね、改革をやるとか、そういうことがあっていいと思いますけども。そういう意味で、もっと各大学にリハ科の教授が続々と出て、個性的なリハをやって、もっと広い展開にすると、僕は将来楽しくなると思うんですけどね。

司会(藤原): でもまだ、リハ科の講座がある大学というのは少ないですよね。

石川: 少ない、少ない。僕は2分類しているんですよ、リハ医を。由緒正しきリハ医、卒業してすぐにリハ医学講座に入ってリハ医になる人。ずっとリハまっしぐらだったうちの菅原(初台リハビリテーション病院 菅原英和院長)なんかもそうですよね。で、僕みたいな、素性卑しきリハ医。

一同:ははは(笑)。

主治医と指示医

上田: 私はほんとにリハだけなので、いわゆる特技というようなものが何もなく、何もできないので、広く浅くするしかなかったというのがあります。

石川: いやいや、それがね、リハ医の本質だと思うんですよ。虎の門病院にいるときに、あるナースがこういうことを言ったんです。「医者には2種類あります。主治医と指示医」。

上田: 指示医?

石川: 主治医と指示医。「指示医というのは病気しか診ない。病気を治すための指示だけは適切に出す。でも、その患者さんの全貌なんかはまったく見ていない。だから私達が見るの。たいていの医者は、みんな指示医ばっかりですよ。でもね、石川先生を見ているとね、主治医という感じがする」と言うんですよ。それはね、全貌を見ようとしているでしょう。そういう医者は少ないんですよ。それは誇りに持つべき。何でもかんでも専門で、このことは自分が一番詳しいです、というのが、むしろないほうがいい場合もあるんですよね。それに、現在のリハは少なくとも市民権を得ましたよ、これだけ高齢社会になって。だからリハビリテーション科といっても、昔みたいなことはないと思うんです。

僕がリハに行くって言った時は、奇人、変人扱いですよ。「リハなんて、鍼灸マッサージのすることで、医者のやることじゃない。おまえ、何考えているんだ、このばか者」と言われた。そういう時代でした。その時に、先輩、後輩、同僚、みんなそう言ったんです。それがね、僕がちょうど近森、初台をつくる頃、よく電話がかかってきて、そういうことで攻撃した医師から、「石川、おまえ月に1回でいいから、うちの病院に来てさ、指導してくれないか」。あれ、リハなんてマッサージ師がやるって先輩言ったじゃないですか。「いやいや、あの時はそう思った」と。変われば変わるもんですよ。

佐藤: 素晴らしいですね、先見の明。

上田: 確かに、リハ医の需要とか、ニーズは増えてきたように思います。

石川: 今、リハビリテーション医学会の最大の問題点は、リハ専門医が足りない、もっと養成していかないとということ。専門医養成をもっと進めないと。専門医を持っていると、あそこにあれが書いてあるとか、これはあの人に聞けばいいとか、そういうことが網羅されます。専門医を取っていれば、慣れないケースを突然診ても、それを全く知らないというのは、たぶんあまり出てこないと思う。だから、そういう意味で専門医というのは大事なんです。入門みたいなもんですね。

上田: そうですね、確かに、広く勉強するにはよかったと思います。

これからの回復期リハ

佐藤: やはり今後ですよね。今後のビジョンといいますか、高齢者がどんどん増えていく中で、回復期リハとして、今後どのような方向を目指していったらいいのでしょうか。

石川:回復期はね、発症から回復期へ入院するまでの日数がどんどん短くなっている。回復期リハが始まったころは、40日位あったんです。今は、もう30日を切って二十何日。整形疾患なんか21日位でしょう。

司会(藤原) : はい。急性期も厳しいですから、在院日数が。

石川: ですから、それはとってもいいことで、これをもっと、もっと圧縮できないか。だから、急性期からもっと早くと。で、それをしっかりよくして、まあ、できれば短い期間で退院させる。こうしたアウトカムですよね。アウトカム評価が厳しくなることがあっても、緩くなることはないと思います。それがまた、回復期リハ病棟の使命ですよね。そのために、その病院で独自のいろんな工夫をして下さいと。そのリーダーシップをリハ医がちゃんと取れるかですよ。やっぱり、リハ医が取るのと取らないのじゃね、僕は雲泥の差があると思うんです。でも、悲しいのは、回復期リハ病棟の専任医、専従医の中で、まだリハ学会の会員じゃない人がいるんですよ。

大串: リハ医のアイデンティティーの問題ですね。逆に、そういう先生たちがなぜニードがあるのか・・・。

石川: 経営者の問題ですね。

大串: そういう先生たちは、結局、リハは療法士さんにまかせておけばいいと言う。

石川: そういう病院が残念ながらまだあるんですよ。

上田: でも、診療報酬がどんどん改定されて、本当にいいリハを提供できる病院だけが生き残れるという状況になってきているとは思います。

石川: それからもう一つ大事なのは、回復期で完結しないということですね。その後の在宅、外来、通所、訪問、そういったいろんな多彩なリハサービスを常に武器として持っていて、それを提供するような仕組みにリハ医が関与するという、そういう直接サービスですよね。それを充実させるという使命がある。

もう一つですね、地域が育っていなければ、患者さんの受け入れ体制が整わないわけです。つまり、これは地域の文化ですよね。その文化を変えていくための、何て言うか、社会活動をしなくちゃいけないわけです。つまり、畑を耕さないで種をまいたってね、そこに患者さんを帰したってですね、みんな寝たきりになっちゃう。だから豊かな畑を耕すという意味で、地域住民に講演会をやったり、ケアマネージャーやヘルパーさんを集めて、自立支援技術を教えたりというのは、リハをやっている人たちの大きな役割じゃないでしょうかね。そういうところにも、リハの専門医がかんでいかないとね。

 

光と風を呼ぼう

石川: あと、もう一つ重要なのは、リハに関係する研究会、学会、組織が山ほどある。増えたんですよ、みんな熱心だから。そういう組織をつくって増やすのはいいんですけども、ばらばらに活動していては力にならないんですよね。だから、どうやってそれを集結して、一大パワーにするかですね。国を動かすために。そのリーダーシップは、やっぱりリハ学会が取るべきですよ。そうすると、もっとリハに風が吹くんじゃないでしょうかね。そういうことを、われわれ自身でこう、光や風を持ってこないと駄目ですよね。もう本当にね、日本のリハビリテーションはうまくいけば、世界に冠たるリハビリテーションになると思うんです。それもね、今が天下分け目の関ヶ原的な時期ですよ。もっと若手が頑張ってくれればいいんですけどね。

司会(浅野):若手への檄も頂戴し、ありがとうございます。お時間もそろそろなので、最後にインタビュアーのお二人から、本日の感想をお願いします。

上田:お話を伺って、今まで石川先生が歩んでこられた道が決して平坦ではなかった、ということがよく分かりました。古い体制から新しいものに変えていくときに、たくさんの抵抗に合いながら、よくぞここまで突き進んでいらしたと感服いたします。私も大変微力ながら、患者さんの小さな幸せが増えるように、現場をよく見て考え、スタッフと協力して試行錯誤していくということを、日々の診療での指標にしたいと感じました。本日は、大変貴重なお話をありがとうございました。

佐藤:石川先生の目標のスケールの大きさには圧倒されるばかりでしたが、まずは人と人とのつながりを非常に大切にされて、非常に細やかな配慮、そして絶え間ない努力の連続であったことがよく分かり、非常に感動しました。まさにその精神はラガーマンそのもので、私の永遠のあこがれです。また、回復期リハ病棟の立ち上げの歴史から今後の展望まで幅広いお話をお聞きすることができて、大変勉強になりました。リハ医としてこれからやらなければいけないことはまだたくさんあることにも気づかされましたので、今後は自分なりに少しでも視野を広げて頑張りたいと思いました。先生、貴重なお話を、本当にありがとうございました。

 

インタビューを振り返って

回復期リハ病棟誕生の歴史は、石川先生が歩まれてきた道そのもので、回復期で日々奮闘するインタビュアーはじめ同席した皆が、先生のお話にひきこまれ、歩まれてきたプロセスを追体験しているかのようなひとときとなりました。

学生時代はラグビー部に打ち込んでいらしたという石川先生。今のチーム医療の現場に生かせていることがありますかと伺ったところ、「この頃は若いドクターから『体育会系の乗りでやっても、後ろをふり向くと誰もついてきていませんよ』と叱られるんだよね。」と、はにかむような笑顔で答えて下さいました。それでも、毎年100人の大部隊で患者さんをクロスカントリーのツアーに連れていらっしゃるとのこと。それは、「乗り」だけでは到底できないことで、石川先生と初台リハのスタッフ皆さんの熱いハートと行動力を感じることのできるエピソードでした。
リハビリテーション医療に携わるものとして、過去から現在、そして未来へ、光と風を呼び込み続ける力になりたい。そんな気持ちを新たにする貴重な機会となりました。

(浅野由美)